/6 Fantasm scorner
灼熱の中、抱き抱える温もりは冷めてゆく。
それをどんな手を使ってでも食い止めたくて、でもその破滅は不可避でしか有り得なかった。
全身から流れ出る血液は、その事実を如実に物語っている。
冷めてゆく、冷めてゆく。
徐々に、彼女だったものから熱が失われてゆく。
「――ぁ――ゆぅすけ――……?」
その破壊された躯で、それでも彼女は生きていた。
それが、凄惨さを幾らか上乗せする。
彼女は生きている。しかし、数秒後には死んでいる。
その僅かな消耗の過程を、その全てを俺は飲み込まなければならない。
「逝くな……シヅカ」
泣きそうな声。それは世界の全ての崩壊を拒むような胎児の喚き。
「頼む、死なないでくれ……俺は――お前が――……」
――殺したクセに。
誰でもない誰かの声がする。
「お前が、好きだった。きっと他の何よりも……」
――じゃあ、何で、殺したの?
「それは――」
――ほら、答えられない。
結局俺は、楢木葉魅幽に恋をしていた。
しかし、同時に、黒姫シヅカも愛していた。
ただ、俺は一方的な暴力が許せなくて、それで――
――問題。
例えば、世界を滅ぼす運命にあるヒトを愛してしまったのなら、あなたはどうする?
――解答
世界の全てを敵に回しても、彼女を守り抜く。
――それは、その行為と矛盾する。
だから俺は――
「ゴメン……」
泣いた。
許されることのない罪の前には屈服以外に意味のない行為。
しかし、次々と溢れ出る涙は、決して止まらなくて。
長年止まっていた感情の奔流が――それを塞き止めていたダムが決壊し――溢れ出る。
「俺は、駄目だ……」
贖罪の言葉を口にして、それでも決して許されず。
だから、俺は、冷え切った彼女の唇に、自分を重ねた。
――白。
その一瞬だけ、確かに俺の罪は許容され、限りのない無の安らぎへと導かれる。
それは幻想――業が氾濫する社会に於いての幻想。
二人が解け合い、離れた時には、既に彼女の熱はゼロにすら感じられた。
その女は二度と動くことはない。
何故なら、今やっと、俺が殺してしまったのだから。
遅れてきた結果は、その過程を飲み干した俺にとっても、残酷過ぎた。
【英雄ガ誕生シタ。夕凪ト相剋スベキ勇輔ガ】
そうして、やっと俺は、怨嗟の言霊を紡ぐ。
炎の舞踏会の直中にあって、その台詞は、遠い空に確かに木霊した。
「――三原……夕凪ィィィィィィィ!!!!!」
◇
――落下、衝撃。
終端速度200km/まで達したかも知れない躯が、三十階分の衝撃を伴い、瓦礫の中に落下した。
弱々しい生命の火を輝かせた、楢木葉魅幽を抱き抱えて。
それでも、俺の足は/幻想は挫けることをしなかった。
――彎曲。
激痛を伴い、躯が元に戻る。
既に一分を越えた後、俺の変異は解消された。
幻想は幻想を引き延ばし、その怒りは一分以上の行動すら可能にした。
手には彼女の命を吸った衝撃杖。
【今カラ英雄ハ殺戮ニ赴ク、暴虐ノ魔女ノ下ヘト】
「夕凪は――?」
後ろから声が聞こえた。
おそらく、あのフエゴとか云う女だ。
「逃げたよ。今からぶっ殺しに行ってくる」
「そうか、なら我々も――」
「でもさ、もし俺がタイミングをハズしたら、死んでたぜ、俺達。いいよ、あんたらは勝手にやってくれ、アイツは俺の獲物だ」
冷たく言い放つ。
返答など別にどうでもよかった。
とりあえず楢木葉魅幽を地面に下ろす。
そして返事が返ってくる前に走り出す。あの悪魔の下へと。
「お、おい、待て――。っ、教官、我々も夕凪を……」
既に何も聞こえない。
あるのは、ただ、彼女を殺した三原夕凪への復讐心だけ。
【振動杖ヲ携エタ英雄ハ、驚クベキ速度デ、闇ノ中ヘト消エテユク
ダガ、ソレデハ足リナイノダ英雄ヨ。汝ヲ英雄タラシメル要因ガ一ツ欠ケテイル――】
◇
「……矢っ張り、ここだったか」
最初の会合を果たした裏路地。
死体は既に片付けられているが、その温もりは未だ路上にこびり付いている。
まさしく最果て。
地獄に近しい煉獄の中で、英雄は悪魔と相対した。
夕凪は、無言でこちらを見つめている――あの嘲笑を称えながら。
「シヅカは、死んだよ」
「――そう、残念だったわね」
「俺が、殺した」
――俺が楢木葉魅幽を連れてこなかったのはその為でもある。
きっと彼女こそ、俺の最後の弱点に他ならないから。
「どうだった……彼女を殺してみて――興奮、したでしょう?」
嘲笑。
なんて不愉快な笑みだろう。
「……お前を殺す、三原夕凪。お前は居ては成らないイキモノだから」
――そう、楽しみね。と悪魔が嗤う。
それは、心の底から楽しそうな、笑みだった。
既に語ることは語り尽くした。
怯えるほどの理由もなければ、殺人への抵抗も全くない。
俺の持てる限りの力を出し尽くし、全力を以て三原夕凪を殺害する。
クスリ、とアイツが嗤う。
途端、それが引き金になって、俺の躯が爆ぜた。
旋風を巻き、大地を抉りすらするそれは、猛獣の疾走だ。
だが、対した夕凪はそれを遙かに超越する。
俺の加速が猛獣ならば、それはさながら銃弾の煌めき。
獣がハンターに勝利し得ないように、俺ではアイツには勝てないのだろう。
振動杖を振り上げる。
その先端が全てを乖離する勢いで稼働する。
夕凪の接近は神業めいた速度を誇っており、決して俺では肉薄し得ないけれど、転じてそれは、カウンター狙いであるなら絶大な効果を発揮できるということでもある。
俺は停止し、タイミングを計る。
一方の夕凪は、既に目視できる速度ではなかった。
たったの一コンマの間が、偉く長く感じられる。
その僅かの間に全ての勝敗は決まる。
風が歪む。
限りなく無に近しいグラウンドゼロの中心にて、刹那を極める居合い抜きの応報が繰り広げられる。
歪んで――消えた。
「――発っ!」
確かにその時、俺は視界の隅に、三原夕凪の姿を確認した。
振動杖を振り下ろす。
それは自分でも驚くくらいに神に肉薄している。
此処に来て、両者は拮抗した。
神業めいた速度の加速と一撃。
【悪魔ハ英雄ニ殺サレル】
果たして、その閃光は、あるいは幻視でしかなかっただろう。
【殺サレル?】
――衝撃。
その死闘の果て、粉砕されたのは、
紛れもなく――
「か――h――」
――神に至れない、英雄の方だった。
確かに、俺の一撃は夕凪の頭部を捉えた。
本来なら脳漿を撒き散らし、虐殺されて然りだろう――対象が、本物の悪魔であるなら。
結果は、敗北。
要因は、忘却。
この振動杖は、魅幽の傘の内部に入っていたものと同等。
決してそれではこの女は殺せない。
それは分かり切っていたことだったハズなのに。
しかし、復讐の激情は、そんなことすら忘れさせてしまうのか。
――馬鹿野郎。
フエゴ少尉と信夜教官、そして魅幽の助けがあるなら勝利出来たかも知れなかったのに。
なんて様だ。
結局俺は大局を見失っていただけだった。
何が英雄だ。結局ただの馬鹿でしかないじゃないか。
糞。
アイツと差し違えるならまだしも、コレで死んでしまってはただの犬死にだ。
腹部に命中した硬質の一撃は、威力こそないものの、俺の力の全てを奪っていった。
身体は崩れ落ち、仰向けに倒れる。
まるでマリヨネット。どこかで見た男のように、まったくと云っていいほど動けない。
唯一、手は動く。
しかし、俺の得物である振動杖は、カランと音を立てて、闇の中に転がっていってしまった。
万事休す。
俺は、このまま――瞬殺・封殺・殺戮・拷問・陵辱――あの二の舞を演じるのだろうか。
それは――
「フフ……チェックメイト」
耳元で、夕凪が囁く。
「さぁ、覚悟しなさい……これからアナタの全てを奪ってアゲル」
絶対に――
手に違和感を覚える。
そうそれは、まるで――
「ね、ユウスケ、クン?」
夕凪の顔が、目の前にある。
唯一動くのは手だけだ。
そして――
「夕凪――プレゼントがある」
――手には、確かな感触が、一つ。
それを、夕凪に――
「――え?」
それは、驚愕の現われか。
夕凪が、初めて間抜けな声を出した。
ここは、数日前の殺戮現場。
死体は悉く回収され、他に落ちていた彼らの所持品も既にない。
だが、例えば――
例えば、その中の一つが、偶然残っていたとするなら――?
――手に握った感触は硬質。
ボタボタと俺の顔にその液体が流れ落ちる。
――銀色に輝くそれは、
生臭い赤色が、口の中へと入り込んでくる。
――紛れもない、一本のナイフ。
「っぁぁぁあぁっぁぁあ!?!」
夕凪が悲鳴を上げる。
眉間を深く刺し貫いたそれは、誰が見ても致命傷だった。
「アバヨ、夕凪――いままで殺した奴らと同じトコまで落ちろ糞悪魔!」
――悪辣なる幻想は破壊された。
或いは、ナイフを抜いて能力で補修すれば、まだ夕凪は助かったのかも知れない。
しかし、混乱したアイツは、ナイフを抜こうとせずに、破壊されてゆく脳の修復を繰り返し行い、その度に新たな破壊に討ち滅ぼされる。
ああ、何て悪夢。
それはその能力故に、死に抗う為に得られる苦しみ。
最も果てに近い殺戮現場で、その虚像の如く最悪の悪魔が藻掻いている。
「あ、ぁ、あ、あ、ぁ、ぁ、あ、ぁ、あぁ、、ぁぁ、ぁ、、、ぁぁ、、ぁ」
それはまるで壊れたラジオ。
ノイズ混じりの悲鳴を上げながら、少しずつ、少しずつ、三原夕凪が稀薄になってゆく。
「ぁ、ぁ、あは、、、は、ははは、、、、、は、、、は、、、、、、、、、、、は、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」
壊れて、壊れて、おそらく世界一の苦渋を乗り越えて、やっと。
――彼女は、死に至ることが出来た。
激闘の果て、
俺はようやく彼女の束縛を解放された。
作り替えられて動かなかったハズの筋肉も、何故か動くようになっている。夕凪が死んだからだろうか。
カツカツ、と足音が響く。
「夕凪を、殺したのか」
それは、フエゴ少尉の声だった。
「ああ――」
それだけ、答える。
「俺が、殺した」
今度は、悔恨からではなくて、達成感すら内包して。
それを聞いて、フエゴは満足そうに云った。
「そうか――」
何の異変なく、何の前兆なく――
「なら、お前は私が殺そう」
フエゴ=マナナはそう云った。
◇
黒い刀身が煌めく。
その早すぎる不可視の脅威を、皮一枚のところで回避する。
「な、なんで……」
ワケがわからない。
なんで、
なんで俺が、このヒトに殺されなければならないのだろう。
二の太刀の軌道が、俺の首を切り飛ばす。
それは決して予測出来ない程の速度で。
しかし、痙攣と共に足の筋肉が弛緩し、俺の身体は崩れ落ちる。
それで、とりあえずは助かった。
「何でアンタに殺されないと――」
黒い刃が突き立てられる。
今度は床を転がってそれを回避する。
「――わからない?」
フエゴが問う。
それに、俺は何か違和感を覚えた。
フエゴの剣が、俺の足を狙う。
間一髪で飛び退く。
だが、それに気を取られていた俺は、彼女の反対の腕が伸びたのに反応できなかった。
左腕を掴まれる。
――途端、
不快な感触を伴い、俺の左腕はその機能を失った。
「ぁ――」
その行為に、俺は、絶句した。
悪魔は、人間の死体を掻き集めて創作される。
その歪な顔も、屈強な身体も、また、その能力による整形でしか有り得ない。
だとしたら――もし、
もし、自分自身の身体そのものを変化させられるのならば――あの自己再生が脳裏に浮かぶ――それは――
カノジョが云う。
「サテ――私ハ誰デショウ?」
恐怖。
戦慄。
おそらくこの世界に存在するあらゆるその類の表現/感情全てを背負いながら、俺は答えた。
「み、三原………………夕凪っ!」
◇
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
アレが嗤う。
既にこの世の存在と認められないカノジョの高笑が夜空に響く。
――何故。
俺の頭を支配したのは畢竟疑問だけだった。
フエゴが本物の夕凪であるなら、さっき殺した夕凪はニセモノということになる。
しかし、それなら、何故あの振動杖の衝撃に耐えられたのか。
「そんなハズは、ない。お前が本物なら、さっきの夕凪は何だ! 振動杖を喰らって死なないなんて――」
そこで、理解した。
そもそもあの武器は――
「ああ、アレ? あれは私が――このフエゴが用意したものよ。一定以下の純度の低い悪魔だけを殺せる武器としてね。あなた達がこの間まで戦っていたのは低級のホムンクルス。だからさっきみたいな作品には手も足もでない。そういうこと」
「で、でもあの夕凪は能力で俺の動きを――」
「あれはただのスタンガン。気が付かなかった?」
――それを聞いて、俺はやっと目の前の本物を認識した。
足はまだうまく動いてくれない。
しかし、そんなのを気にしている場合じゃない。
重すぎる足を引きずりながら、俺は全力を以てカノジョから逃亡する。
本物のフエゴがどうなったのか――そんなことは分らない。
既に殺されているかも知れないし、今も生きているかも知れない。
だが、そんなことは、ホントウにどうでもよかった。
ただ、今は、あの恐怖から逃れるので精一杯。
幸いなことに、アイツは俺を追ってこない――
不意に、嫌な予感が過ぎる。
――でも、本当にそうだろうか?
それは、もしかしたら――
走る。
全ては無に等しく、いつかの風のように走る。
追ってきているかも知れない恐怖から逃れる為に。
恐怖?
結局俺はその領域から抜け出せない。
英雄? 無執着?
馬鹿を云うな。糞野郎。
そんなもの俺には不似合い過ぎるだろうが。
結局のところ、何か変った気がしても、何一つ変っていなかったのだ。
それは、幻想。
絶対に冷めてしまって、元の現実に回帰する他の選択肢を持たない、悲しいマボロシ。
すぅ、と外套がはためいた。
その姿は痩せこけて、銀色に近い髪が月光を浴びて光っている。
「信夜さんっ!」
感動のあまりその名前を叫んだ。
安堵。
この人に任せれば、全てが解決してしまいそうで、
「助けて下さい、フエゴさんが夕凪が……!」
感情の渦に呑まれて呂律が回らない。
「応、事態は大体わかってる。俺に任せとけば大丈夫だべさ。……まず落ち着け」
いつもの優しい笑顔で、頼もしい表情で、信夜教官はそう云ってくれた。
それで、全てが救われたかのようにも思えた。
「それで、お前が最初に会った夕凪はどうした?」
「何とか、俺が……殺しました。でもフエゴさんが――」
「夕凪だったんだろ。あいつ、俺の前で豹変してな。時間になってないのにビルに点火しやがった。御陰で俺もこの有り様だ」
そう言って、外套の背中を見せる。
そこは、僅かに焦げていた。どうやら爆発に巻き込まれたらしい。
「――ハ――ァ、ァ――」
息を整える。
「それで、一応聞くがどうやって夕凪を倒した? 俺でも難しいのに」
流石は信夜教官だ。
こんな時でも落ち着いている。
否、それとも戦略の為に聞いているのだろうか。
「初めは一方的にやられたんですが、アイツがのし掛かってきたときに、偶然刃物を見つけて、それで――」
「眉間を刺したのか――そりゃ痛ぇな」
「でもアイツ、脳を刺されても死なないんです。自己再生を繰り返して、死んでいきましたが、もしナイフを抜かれていたら――」
――ん?
眉間を……?
「俺、眉間を刺したなんて、云いましたっけ?」
「……」
おい。
待ってくれ。
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
それは、違う。
「痛かった。少し痛かったな、アレは……」
「そ、んな……」
それは、間違いなく……。
「だから云ったじゃない『チェックメイト』だって」
酷い、ユメ。
信夜の顔をした夕凪が嘲っている。
「フエゴは元々この街にいない。信夜は私の手で改造された」
「ぁ――ぁ――……」
「だから、」
――あなたには、元々勝ち目なんてなかったの。と夕凪は云った。
懐から、黒い輝きが取り出される。
拳銃。
生身の人間であるなら能力者をも殺し得る、手軽な初期科学の産物。
あれが咆哮した瞬間、俺は終わる。
否、夕凪ならそんな幸福な最期はくれないに決まっている。
少し遅れて、後ろから足音が聞こえてくる。
追いつかれた。
フエゴ=マナナ、否、彼女の姿をした夕凪と、信夜の中に居る夕凪と。
俺の身体は未だ麻痺より全快していない。
勿論武器など一つも持っていない。
絶体絶命なんて生やさしい言葉では言い表せない程に、その戦力差は歴然だった。
「「さぁ、覚悟はいい……柊樹、勇輔クン?」」
誰も、いない。
この場には、否、この世界には、俺を助けてくれる人間が、もう誰もいない。
親は俺のことをまるで異物のように扱うし、担任は一定の間隔を置いて他者の領域にいる。深い絆を持った友人はいないし、黒姫シヅカは死んでしまった。
あ。
俺の脳裏に、一人の少女の姿が浮かんだ。
そう云えば、彼女は――
黒い、風が吹く。
信夜の後ろ、裏路地の入り口に、それは立っていた。
齢は十四くらいだろうか。全身を黒一色で塗りつぶしたかのような少女。黒の長髪にゴシック調のドレス。黒い傘を持ち、その全てに黒いレースが掛かっている。
それは出会った時と同じ、可憐さで。
しかし、その表情はあの時より苦渋を刻んでいる。
「魅ゆ――」
呼ぼうと思った。
今、世界で唯一俺の味方になりえる彼女を。
しかし――
――果たして、彼女は前の彼女と同じものだろうか。
あの時、フエゴの近くに置いてきてしまったのだ。しかも立ち上がれる身体じゃなかったハズ。
信用、しないほうがいい。
今、頼りに出来るのは、間違いなく自分自身だけ。
そう、独力を以て、彼女たちを――
「――無理、だ」
なんて、無力。
あまりの恐怖に、涙が流れる。
結局、俺は自分一人で何も出来なくて――
「何、泣いてるのよ、雑魚。屈服するくらいなら少しは抗いなさい」
――その声を、聞く。
――衝撃、粉砕。
確かに屈強な中級クラスのホムンクルスは、しかし、その衝撃の前に宙を舞う。
少しばかりの血が夜空に咲いて、その向こうに、
楢木葉魅幽が舞っている。
「少し早いけど――たぶん死にはしないわ、我慢しなさい」
宙を自在にする黒の天使は、そのまま、俺の元へと舞い降りると、唇を重ねる。
――変身。
【今コソ英雄ガ完成スル、欠損シテイタ要因ヲ埋メテ】
激痛を激痛を激痛を生の感覚を実感しうるほどの激痛を。
苦悶を苦悶を苦悶を罪の意識を覚醒しうるほどの苦悶を。
今、ここに在りて、悪魔を殺戮する――英雄の誕生を。
【限界ヲ破壊セヨ。臨界ヲ突破セヨ。喩エ俺ノ幻想デソレガ出来ナクトモ、俺達ノ幻想ハアラユルヲ凌駕スル】
「さぁ、行くぜ悪魔共――俺達によって完膚無きまでに討ち滅ぼされろ!!」
――それは、一瞬の爆砕。
俺の身体は宙に舞い、未だ空にいる信夜だったものの頭蓋を鷲掴みにする。
そのまま投合。投げ放たれたその身体は、刀を構えているフエゴ――本物の夕凪に重なり、死なない勢いは彼女らをそのまま共に吹き飛ばす。
着地。加速。
魅幽はそれを予期していたかのように、宙を舞う二人の身体に傘を突き立てようと腕を引く。
俺の手は魅幽の傘の柄を共に握ると、そのまま――
「喰らえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
【悪魔ハ英雄ニ殺サレル】
――三原夕凪を刺し貫いた。
◇
血に染め上げられた裏路地。
辺りには、丁度二人分の死体が横たわっている。
双方腹部を貫かれ、片方は頭蓋すら砕かれて。
それは、戦いの終結を意味していた。
「終わった……」
呟く。
それを聞き取ったのは、となりに佇む、黒い少女だけ。
「そうね」
そう、当たり前のように、呟いた。
それは、彼女にとって当たり前の結末でしかなかったのだから。
――戦いは、終わった。
三原夕凪という怪異は死に絶えて、この街に存在する恐怖は、少しばかり薄らいだ。
だが、俺が感じるのは達成感だけではない、哀しみの名残だけでもない。
何とも形容しがたい、欠落が一つ。
戦闘の余韻の中で、またしても一つの疑問が沸いた。
「これから、俺はどうなる?」
また、あの日常に戻るのだろうか。ただし、黒姫シヅカのいない、日常へと。
「前のアナタに戻るんでしょう? 安心と日常を取り戻して」
「やっぱり、そうなのか……」
「残念そうね」
「……」
夕凪と戦って、死にかけて、英雄を気取って、苦痛を知って、
俺は幾度となく日常に回帰したい思いに駆られた。
しかし、終わってみれば、どうだ――
「俺は、日常に、戻りたくない」
がんじがらめの楽園。
決して報われることのない、彷徨う魂の煉獄。
俺がいた日常とは、そのようなものだ。
活き活きしているヤツは、何か後ろめたさを隠しながら、
誰もが引きつった笑顔を浮かべる世界。
既にただしく機能しなくなったそれは、俺にとって――
魅幽は、少し、目を伏せたまま、云う。
「――駄目。あなたはあなたの場所に帰りなさい。ここはあなたにとっては夢幻。ヒトは繰り返される日常の下僕になるほか、生きていく術を持たないの。だから、あなたがこちら側にいてはならない。それに、こっちは危険すぎる」
おそらく、想いは同じなのだろう。
なのにこいつは――
「危険でもいい。どんな目にあっても構わない。俺は、お前と――」
「甘えないで! ……こちら側はそんな感情で居られるほど簡単な世界じゅない……日常に還りなさい、柊樹勇輔」
自分の痛みを共有させたくないから、大切な誰かを危険に晒させない為に。
「そんなの、お前だって――危険じゃないか。俺ばっかり仲間はずれにするな馬鹿!」
彼女の痛みを共有してあげたくて、大切な誰かの為に危険に晒されようと。
「アタシはいいの。こんなのはただの繰り返される日常に過ぎない。アタシは黒、戦うこと自体が存在意義なのだから。危険なんて、生まれたときから背負っている。アナタはまだ間に合う。……戻りなさい!」
だから、何でそんなに背負い込む。
そんなのは誰かと共有して軽くしちまえば手っ取り早いっていうのに。
限りなく不器用で、自分の本心すら押し殺して。
「俺は、お前と一緒に行く。もう決めた。手遅れっていうならお前と出会った時に、もう――」
それに、あの時、俺は確かに、黒姫シヅカより楢木葉魅幽を選択したのだから。
「巫山戯ないで!! いつ死ぬかもわからないのよ!! 私はアナタを――」
その顔は涙さえ浮かべて、俺はそれ以上苦しませたくなかった。その壁を取り払ってしまいたかった。だから――
「黙れ」
そう云って、口を俺で塞いだ。
長い、今までの中で一番長い――永劫の白。
解け合い混ざり合い。存在が一つに感じられる程に同一化して。
その微睡みの中、俺は確かに見た。僅かな微笑みさえ浮かべた、彼女の涙を――
「……馬鹿」
俺から解放されて、彼女は真っ先にそう言った。
「これじゃ、もう、駄目になっちゃうじゃない。……このままじゃ、アナタから離れられなくなる」
本当に苦しそうに、幸せを苦しんだ。
「それでいい。お前の苦しみは、お前の痛みは、俺が共有してやるから。だから――」
――もう、苦しまなくていい。と俺は云った。
魅幽は、しばらく、泣いて、それから――戸惑いながら、訊いた。
「死ぬかも、知れない」
――構わない、と俺は答えた。
「アタシが死んだらどうするの」
――その前に俺が助ける、と英雄は答えた。
「弱いアナタじゃ助けられない」
――ならもっと強くなる、と少年は答えた。
「な、ならアタシがアナタを殺すと云ったら」
――お前に殺されるなら幸せだ、と柊樹勇輔は答えた。
「……馬鹿」
嬉しそうに、悲しそうに、辛そうに、彼女は泣いた。
「……馬鹿雑魚」
それは、少しだけ、幸せそうな響きすら、孕んで。
彼女は、その時確かに微笑んだ。
今までにない、最高の笑みで。
そうして、俺に抱きついた。
「もう……離れられなくなっちゃったじゃない……」
はにかんで、泣いた。
俺は、彼女を深く抱きしめて、その鼓動を聞いていた。
長い、抱擁。
その時は、果たして百年以上の重みを持っていた。
「ねぇ」
彼女が云う。
「キスしていい? ……今度はアタシから」
大粒の涙を滲ませながら、肩書きを失った十四歳の少女は恐る恐る懇願する。
それは、ケイヤク。
血なまぐささとは乖離した、愛を確かめ合うためだけの、パートナーとしての契約。
――唇が、触れる。
ビクン、と跳ねる。
それは、まるで、彼女が俺の中に解け合うかのような――
俺の中に、彼女の全てが進入してくる。
それで、理解してしまった。
【楢木葉魅幽/楢木葉魅幽/楢木葉魅幽/楢木葉魅幽/楢木葉魅幽/楢木葉魅幽/楢木葉魅幽/楢木葉魅幽/楢木葉魅幽/楢木葉魅幽/楢木葉魅幽/楢木葉魅幽/ナラキハミユウ/楢木葉魅幽/楢木葉魅幽/ナラキハミユウ/ナラキハミユウ/楢木葉魅幽/ナラキハミユウ/ナラキハミユウ/ナラキハミユウ/ナラキハミユウ/ナラキハミユウ/ナラキハミユウ/ナラキハミユウ/ナラキハミユウ/ナラキハミユウ/ナラキハミユウ/ナラキハミユウ/ナラキハミユウ/ナラキハミユウ/ラハミナキユウ/ミハラユウナキ】
【此処ニ、残酷ナ物語ハ完成スル】
楢木葉魅幽のカタチが解け、それは、カノジョのカタチを形成する。
「は――ははは、は――」
力が抜ける。
要するに、俺は――
「おい」
泣きそうな声で、
笑いながら、
「いつからだ」
――結局未だボードの上から逃れられていなかったのだから。
「いつからお前はお前になった――三原夕凪!! 魅幽を――アイツをどこへやった!!」
ドゥン、と鼓動が動く。
もう、全てが瓦解してしまったと、理解しているというのに。
「私は初めから三原夕凪。楢木葉魅幽は存在しない。確かにアレの元になった少女はいるけれど、あなたが出会った楢木葉魅幽は、私」
目の前のカノジョは云う。その妖艶な美貌のままで。
「嘘だ――ならあの能力は何だ。何故俺は幻想をカタチに出来た!? 時間の制約は!?」
「アレはただ単に私がアナタの筋肉を弄っただけ。時間なんて関係ないわ。その度に私が触れて元に戻していただけ」
思考は重く。
既に何一つ正常なものが理解できなかった。
「ハ――」
馬鹿らしい。
この世の全てはそんな幻想だけで出来ているのか。
幻想は幻であるが故に幻想だ。
いつかは必ず冷める運命にある。
俺が幻想に惹かれ、幻想を紡ぐものならそれは必然の事。
存在そのものが幻想である少女に恋をするのは当たり前だった。
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
嗤う。嗤う。それは世界の全てを笑い飛ばす行為。
この世は、ツマラナイ日常と、下らない幻想で紡がれる。
俺は、その時、この世界から乖離した。
「あなたに最初に会ったとき、私は三原夕凪だった。そしてアナタが逃げた後、ニセモノと入れ替わって私は楢木葉魅幽になった」
その独白は、俺の精神を少しずつ破壊してゆく。
「黒姫シヅカを呼び出したのは、私のニセモノ。彼女を改造したのは、信夜と会いに行くという名目であなたと別れた後。どう、案外簡単な話でしょう?」
初めから分っていた。
こいつは俺の"死"だ。
それから逃れる手段など何一つないのだと。
「知ってた? ここ数日、アナタは私と私の創造したホムンクルス以外と出会っていないのよ――まぁ、黒姫シヅカは別だけどね」
その単語に、俺は現世に引き戻される。
黒姫シヅカ。
俺の幼馴染みで、俺が楢木葉魅幽と天秤に掛けて、殺してしまった少女。
――誰と天秤に掛けたって?
そんなもの、そもそも存在しないっていうのに。
悲劇とは、イズムより生まれ出でるものである。
エゴイズムとヒロイズム――彼の罪はそこに確かに存在する。
しかし、悲劇の悲劇足るを知るのはイズムを失った時にこそ始まるのだ。
英雄は悪魔を殺して英雄と化し、英雄は悪魔を知ってヒトに墜ちる。
――英雄と人間の、その間にある差を理解してしまったが故に。
「っぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁあああ!!」
――然り。今こそ俺は幻想を失った。
悟ったのは、英雄と人間の差。
悪魔の真意を理解しないで暴虐を尽くすのが英雄なら、
それを少しでも顧みるのが人間だ。悪魔というものを悪と決めつけることをせずに。
要するに英雄とは幻想に支配された盲目なのだ。
俺は、独善を以て黒姫シヅカを殺した。
彼女のその歪んだ心を、救おうとも思わずに暴力で消し飛ばした。
それで、得られるモノは何もなかったというのに。
◇
夕凪の顔が近い。
これから、俺は殺戮される。
だが、恐怖は薄い。否、俺のココロがそれを拒んでいるが故にそう思えるだけだ。
「あら、そんなに心を閉ざしちゃ、愉しめないでしょう?」
夕凪が俺の耳に息を吹きかけ、甘く、噛む。
器用にYシャツのボタンを外し、さらけ出された胸板の上を、指が這う。
「ぅ、ぁ――ぁ―」
それで、俺の感覚は何よりも敏感に研ぎ澄まされた。
その能力は肉を組み替えるどころか、感覚すら組み替える。
何よりも与えられた感覚は、恐怖。
死にたくない死にたくない死にたくない。
そんな言葉の羅列が頭の中を駆けめぐる。
「さぁ、散々焦らしたのだから、良い声で鳴いてね――坊や」
そう云って、夕凪の唇が俺を奪う。
瞬間、俺の身体の全てが脈動し、右腕が空に投げ出される。
勝手に伸び上がった右腕――その指が、在らぬ方向にねじ曲がる。
「ぎgぎぃぁああぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
極限まで研ぎ澄まされた痛覚は、その異常を過剰に伝達する。
バキバキと音を立て、俺の指は螺子のようにクルクルと回り、螺旋を描いた。
「まず、いっぽぉん……」
耳元で、囁く。
それは嗜虐的に歪曲した、極上の喜悦を称えて。
2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13、14、15、16、17、18、19、20。
いつかの男のように、しかし、今度はより過剰に、その行為を執行する。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
「――ぁ――ぁぁぁ!」
夕凪の舌が、腹の上を蛞蝓のように這い回る。
その度に、ゾクゾクとした快感がわき上がる。
痛みと快感。
交互にそれを繰り返すことによって、一回一回の感覚の濃度が濃厚になってゆく。
腕の皮を全て剥がされて腕をへし折られた。同様に皮を剥がされた足を間接以外の半端な場所から叩き割られた。胸骨と助骨を開いて、内臓を引きずり出し、それでも生命活動に異常を来さぬように稼働させ続ける。
「あ、そうだ。私ね、今ミステリーに凝ってるんだけど――あれ? あれはホラーだったかな? まぁ、乙一の暗黒童話って知ってる? 確かあれに身体の内側と外側を反転させるのがあったと思うんだけど、試してみようか知ら」
その威圧感を残したまま、無邪気に微笑んだ。
接触、解体。
俺の身体は、生きたままサカナのように展開されて、外側が内側になるように接着される。
出血が、凄い。
だが、あと数十秒は死に至らない。
ただただ、その痛みに意識が飛びそうになるが、それすらも許されないようにプログラムが書き換えられている。
苦しい。
グルグルと世界が回り始めている。
辛うじて頭部は無事のままだ。
痛みを堪え、声を絞り出す。
「俺は――死にたくない」
それは、出来るかぎりの、精一杯の懇願だった。
だが、返ってきたのは、どこまでも残酷な答え。
「あれ、可笑しいわね? 『お前に殺されるなら幸せ』なんでしょ」
そう云って、クスリ、と笑った。
「でも――元に戻してアゲル」
周囲のパーツを俺の身体の上に載せ、手を触れた。
すると、たちまちそれは俺になじんで、数秒後には元通りの完全な俺に戻っていた。
助かった……のか?
一瞬の、安堵。
だが、夕凪が見せたのは、紛れもない嗜虐の笑み。
そして、云った。
「さぁ、第二ラウンドを始めましょう」
俺はその時、自分の運命を理解した。
死にかけても死ねず。しかし痛みは絶えることがなく。
快感と痛みの連鎖を、出血多量で死亡するまで繰り返される。
そこは等活地獄か大焦熱地獄か。
兎も角あの男達同様、全うな最期は飾れない。
「なんで……なんで俺をこんな残酷な目にあわせる」
力無い、声で、泣き叫ぶ。
だが、転じて対する答えはどこまでも残酷に。
「そうね、趣味、かしら」
俺は、今更ながらこの女を理解し直した。
「別にハッピーエンドで終わらせても良かったんだけどね……あなたが現実を選んだのなら。……でもあなたは幻想を――楢木葉魅幽と共に生きることを選んだ。喩え彼女に殺される幻想であったとしても、ね」
それは、無限の絶望を伴った喜劇だった。
既に、俺には動く気力も残っていない。
「どうしたの、何か云ってみなさい」
互いの熱すら伝わる距離で、
「嫌、だ――死にたくない」
夕凪の手が、俺の頬を撫でる。
その顔が解けて楢木葉魅幽を形作る。
「――だぁめ。……あなたは私に犯されなさい」
極上の笑顔で、そう云った。
それで、俺の心は、折れた。
俺の意識が限りなくゼロになって、全てが無に呑まれてゆく。
絶望に屈した柊樹勇輔は、もう自己の存在すら捨ててしまった。
夕凪の手が、勇輔の胸に触れる。
そして――
――ガァン――
銃声。
――予期せぬ乱入者が彼女の殺戮空間を破壊した。
◇
「やりすぎだ、夕凪。それ以上やるってんなら、お前を撃つ」
その男は、一人で三原夕凪のテリトリーに進入した。
手には拳銃。
その古めかしい外套に付着している血痕は、その男がカタギでないことを証明していた。
「信夜さん……」
クス、と夕凪が笑う。
「余計な演技はいい。行くぞ……」
その言葉を受けて、あの三原夕凪が動いた。
「……だって。邪魔が入ったからあなたは特別に助けてあげる」
夕凪の手が勇輔の身体に触れて、そしてその異常な感覚を正常化した。
「さよなら」
後ろに投げた視線で、柊樹勇輔を捉えたまま。
彼女は歩いてゆく、おそらくは本物の信夜の下へと。
「もう、折角楽しんでいたのに」
「ホント、悪趣味だな……ちなみにお前が街の至る所にセットしたカメラは撤去しといたぜ」
「うわっ、酷っ……あなた今回の楽しみを全部奪うつもり?」
二人は歩いてゆく。
まるでその少年がどうでもいいかのように。
三原夕凪から解放されてしかし、柊樹勇輔は動かない。
既に全てを奪われて、自己が破壊されてしまったカレは、果たして動くことが出来なかった。
だが、死んではいない。
或いは、何かが切っ掛けで再動するかも知れないが、しかしそれでも未来はどこまでも暗かった。
ポツポツ、と雨が降り始める。
それが、せめてもの手向けであるかのように。
柊樹勇輔の汚れた身体を洗い流した。
◇
「ねぇ」
しばらく歩いた後、夕凪が訊いた。
「……あの子、どうなるか知ら?」
相変わらずあの笑みを称えたまま。
転じて硬い表情で信夜は答える。
「……マトモな日常には帰れないだろうな」
全てを破壊されて、元の有りの儘とは違う世界に踏み込んで、柊樹勇輔は別のモノになってしまった。
――カレが、楢木葉魅幽を選択した時点で。
「わかってて、助けたの?」
「ああ」
答えは、早かった。
それに、夕凪は楽しそうに問いかける。
「愛するものすら手にかけて、そこまでして守ったものが実は敵だったなんて、あの子死ぬほど辛いでしょうね。それでもあなたは生きていろっていうのかしら?」
だから、これは喜劇であり、悲劇だった。
英雄を幻想し、全てを失った男の物語。
「たぶん、あいつはもう立ち直れねぇ。いつまでも空っぽのまま、意味もなく地獄的な日々を生きていくんだろうよ。それでも、生きていた方がいい。なんたって死人の俺が言うんだから間違いねぇべさ」
信夜が辛そうな表情で、笑う。
何もないはずの、勇輔の幸福を羨望して。
夕凪はそんな信夜の様子を見て、カレの不幸と、そしてその幸福さを思い出した。
何故なら、カレは全てを停止してしまった代わりに、幾人もの人間が焦がれたフヘンの領域へと辿り着いているのだから。
「すべてを失ってまだ生きていろというの? なんて――」
――残酷なひと。
そういって笑った。
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