/3 Meet to white&black


 帰り道。
 既に辺りは暗くなって、人影は全くといって良いほど見えない。
 都会と田舎の真ん中あたりに属する俺達の街は、やはり夜になると寂しくなる。
 まるで抜け殻の住宅街が、がらんどうの世界に点在しているかのように、そこはあまりにも空虚な現実リアル
「……」
 その中に於いて、唯一自由になる自分自身は、やはり周囲と違わず静寂を保っている。

 ――夢は、小学校に置いてきたつもりだった。
 幼少時代にはやりたいことが沢山あって、ピュアな恋心とか、イノセントな世界観の中で、夢や希望に溢れた日常を送っていた。それはまるでファンタジーの世界のように、一日一日が充実していた。
 俺は運動が好きだった。友達と競争するのも楽しかった。
 俺は今では覚えていない誰かが好きだった。あの鼓動は本物だった。
 俺はゲームが好きだった。皆でワイワイ騒いだ思い出が沢山ある。
 でもいつからだろう、俺は夢を失った。正しい世界を失った。魔法の日々は、それこそ幻想であったかのように何処かへ消え去ってしまった。
 アイツとかアイツとかアイツとか、腐った大人の所為で腐った子供が増えていって、そしていつからか、善悪の情勢は逆転した。
 だから俺は暇になった。腐ったヤツとは敵対して、自分は一人だけ正しいのだと思いこんで。
 そしたら今度は自分が腐っていった。誰とも付き合わないということは変化しないということ。流動しない生命は成長せず、未来がないので希望もない。だから、俺に、これから先なんてものは無いはずだった。ただアタリマエのように生きて、アタリマエのように衰弱し、アタリマエのように死ぬのだと、そう思っていた。
 彼女と一緒にいるのも、別に付き合っている訳じゃない。ただの暇つぶし。
「……いや。いやいや――」
 思考回路が正常に作動しない。
 っていうか彼女のことを考えるのは止めよう。思考停止停止停止カットカットカット

 兎も角、俺の幼少時代あった筈の幻想が、今の俺には抜け落ちている。
 だから彼女と……いや、ゴメンナサイ俺もう駄目だわ。思考カット放棄。
 彼女と恋人として付き合えるのなら、俺は或いは嘗ての幻想を取り戻せるかも知れない。
「……何なった気になってんだ、俺」
 俺らしくもない。
 どうせそんなものは有り得ざる幻想でしかない。
 過剰な期待を寄せてみたところで、裏切られるのがオチだ。
 そうだよく考えてみろ柊樹勇輔、ルージュはあの馬鹿女が仕掛けた罠という可能性も十分あるじゃないか。
 いや、むしろそっちの方が確立が高いだろう。そんなどうしようもないことに幻想を抱いたって仕方がない。俺は俺、今まで通りの柊樹勇輔で、変り映えのしない糞ツマラナイ日常のサイクルに甘んじていればいいんだ。
「……」
 でも、でもそれでいいのか。
 俺の思考を十に分けるとしたら、その内の三くらいは、変りたいという願望を抱いている。
 七割の諦観と三割の――希望?
 だが、そんなもの希望するだけ無駄だ。そうやって切り捨てるからこそ俺には――希望がない。
 だってそうだろう? きっと今の世の中でマトモな幻想に立ち返るには、もの凄い確率の引き合わせが必要になる。
 例えば――そう、それは、町中で殺戮を繰り替えす、怪物に出会う程の確率。
 そんなの殆どゼロに等しいじゃないか。だから俺は変われない。永遠に腐った揺りかごの中、自分でも気付かずに弱り果ててゆく。
 ――■◇■――
   音がする。
 だから、だから俺は、
 ――――■■■――◇――
   悲鳴?
 ユメを見るなんて幻想を否定して、
 ―▲■――■◇▲――――
   裏路地から聞こえる。
 その刹那――
 ――――――――――――
   その方角を、見る。
「なっ――!?」

 幻想と、遭遇する。





 まず、得体の知れないプレッシャーを感じた。
 ああ、死ぬ。ただそれだけが理解できる。
 次に噎せ返るほどの悪臭。
 それから一面の赤。
 そして、その中に佇立する白い服――赤く染まった白衣の、女。
 舞っている。舞っている。殺戮の妖精が舞っている――

 どれだけの間惚けていただろうか。
 見とれていた。恐怖で動けなかった。俺の求める非現実への遭遇。
 ゼロに等しい筈の確率の筈の、有り得ないものとの接触。
 それの中にあって、俺は確かに少しでも歓喜した。

 女――アレは何よりも凶悪性のみにて特出した悪辣なる幻想バッドファンタズム
 殺戮の為だけにあるかのような力――接触・干渉。
 その女が、こちらに向けて歩いてくる。

 一歩(その笑みを全く絶やさぬまま)、また一歩(優しげに誘惑しながら)、更に一歩(惨劇に心躍らせながら)、
 ゆっくり、酷くゆっくりと、しかし確実に、

 俺の"死"が、近付いてくる。


「あんた、誰だ?」
 逃げるでもなく、俺はそんな台詞しか吐けなかった。
「三原、夕凪」
 何処か悲しげな薄笑いを維持したまま。
 彼女は、怪物は、悪魔は、魔女は――己が名前を口にした。
「三原……夕凪……」
 俺が、それを反復すると、何が可笑しいのか、クスリ、と笑った。
「こんばんは」
 それは、あまりに平常すぎて、逆に恐怖を駆り立てる。
 しかし、これが関わってはならないものだと理解しながらも、俺はどうしてもこの幻想から逃げられない。
「――あなたは?」
「え?」
「名前……普通は自分から名乗るものだと思うけど?」
 なんだろう、俺の世界――常識という名のアタリマエがこの幻想を前にして食い破られたのか、どうにもどの行動が正しいのか思い出せない。
「柊樹、勇輔……」
 つい答えてしまう。馬鹿か俺は、こいつは――
「……あんたは、一体何なんだ……その――」
 そういって死体の山の方へと目を向ける。
 その中にマトモな最後を迎えられたモノは、誰一人いなかった。
「ああ、アレ? ……そうねぇ、いうなれば趣味かしら」
「え?」
 白い悪魔が笑う。
「趣味っていったの。あなたにもあるでしょ、ゲームするとか、本を読むとか」
 その解答は余りに現実離れし過ぎていて、俺はおかしいとすら思えない。
 この世界の法は目の前の女だ。だからこれこそ絶対な正当性。そんな思考すら働いてくる。
 叱咤。
 だが違う。違う、筈だ。
 だから、聞いた。
 世界の真偽を確かめる為に。
「あんたは、その、こんなことをして、何も、感じないのか?」
「馬鹿ね」
 笑う。
「あなたは趣味に没している時、何も感じないの? 楽しいとも、嬉しいとも?」
 それは、人間の言葉じゃない。
 後ずさる。
「じゃあ、聞くけどさ。例えば、それが一般に犯罪とか呼ばれて、それで、見つかるとヤバイ場合、誰かに見られてもあんたは平気なのか?」
 それは、俺をここから生きて帰す気があるか、という質問。
 嫌な汗を掻く。
「そうね、場合にもよるけど、特に誰に見られても気にしないわ。あなたみたいな可愛い男の子なら尚更ね」
 笑顔で、微塵も動揺していない笑顔で、女は云った。
 更に一歩後ずさる。
「そ、それじゃあ、俺は――」そろそろ帰らせて貰おう。
「――でも」
 足が、止まる。
「云ったでしょ。これは趣味。云うなれば遊戯なの。自分の欲求を満たすための、ね」
 嫌な予感がする。
 何歩か後ずさる。
 直ぐ、今すぐに、ここから離脱しろと精神が訴える。
「――ワタシ、可愛い男のコ、好きよ?」
 駄目だ。
 駄目だ。駄目だ。
 逃げろ。こいつは駄目なんだ。己の持てる限りの精神力と体力と筋力と思考能力を存分に発揮して早くその場から逃走してしまえ!!
「だから、」
 後ずさり。壁に阻まれてこれ以上後ろには下がれない。
 だが、幸運なことに、未だ袋小路ではない。横に抜け道がある。逃げるならそこだ。
「だから――お姉さんと遊ばない? 坊や」
 全力疾走で走り始めた。





 疾走、疾走、疾走。
 風になるという感覚を、俺は生まれて初めて理解した。
 糞。
 ヤベェ、ヤベェ。捕まったら殺される。
 いや、普通に死ぬというアタリマエの権利すら剥奪される。
 だから、絶対にあいつに捕まる訳にはいかない。
 そう、非常に気にくわないが――俺は、死にたくないと強く願っている。
 それは、あの退屈な日常でも無いゼロよりはマシだってこと。

 相手は女一人。
 どれだけ特殊な能力を持っていようと、そんなに早くは走れない筈だ。
 走る。
 走る。
 息が切れる。
 それでも走る。
 足の筋肉がそろそろ痛みを訴えてきた頃――俺は、表通りに出られそうな道を発見した。
 一見、行き止まりに見えるが、壁の高さはそれほどでもなく、全力で跳べば何とか手が引っ掛かりそうな距離だ。
 ただし、こんな所に追いつめられたら、それこそ逃げ場を無くす場所でもある。

 深呼吸。
 心を落ち着かせる。
 残っている力を振り絞って、一瞬の跳躍力に変える。
 スタートまで、後三秒。おちつけ、お前なら出来る柊樹勇輔。否、やるしかないんだ。死にたくなければ。
 3。
 とりあえず夕凪の声は聞こえない。
 2。
 どこかでどさ、という物音が聞こえた気がした。
 1。
 気合いを入れる。
 0。
「疾っ――!」
 それは今までにない、高速を極めた速度で。足裏が踏みしめるアスファルトの感触を蹴り飛ばしてゆく。
 一歩また一歩。
 陸に上げられたサカナのように息が苦しく、繰り返される過呼吸は駄犬のそれだ。
 イメェジは、鳥。
 水面から飛び立つ白鳥の如く、無駄なく滑らかに、ソラに渇望するかのように。
 ――跳躍フライ

 長い。
 宙に浮いている時間が長過ぎる。
 まるでゼラチンの中を進むかのように、酷くユックリ俺の身体は進んでゆく。
 壁の上まであと少し。
 少しずつ少しずつ、足掻く俺を嘲笑うかのように速度は低下してゆく。
 足りない。
 あと僅かだけ、握り拳一つ分だけ。
 届かない、届かない。
 落ちるのか、落ちて、後ろから来る奴に捕まるのか?
 捕まって、そして――
 否。
 俺の身体は前に進まなければいけない。
 重苦しい息は荒く、肩を外す限界あたりまで、
 手を、伸ばす――
 届け――!
「っらぁぁぁぁっぁ――――!!」
 ――接触キャッチ

 最後の最後、必死に足掻ききった俺の掌は、壁の縁にこそ届かなかったが、そこから僅かにぶら下がっている何かを、確かに握りしめた。

 ――それは、丁度ペットボトルほどの太さの、塊だった。

 全身全霊を持ってしての大跳躍。それを成功させたまではいいが、俺にはそろそろ力は残っていない。

 ――それは、ペットボトルより断然柔らかいものだった。

 例えば、こんな所でアイツに捕まったら、それこそ一巻の終わりデッドエンドだ。

 ――それは、それなりに温もりを持ったものだった。

 そう、例えば人間の手のように。
「捕まえた」
 白い悪魔が笑う。
「うあぁぁぁぁぁぁあ!!」
 即座に手を放す。
 落下。
 鈍痛。

「失礼ね。レディの手を握るどころかはね除けるなんて――少し傷ついちゃった」
「み、三原、夕凪――」
「そういえば初対面の相手に対してその呼び方もないわね。でも、」
 ――跳躍。
 壁の上から更に高すぎる中空を目指した、人の域を遙かに逸脱した業。
 上空十メートル程度を飛び越えて、旋転。三原夕凪カイブツは、俺の後ろ側に着地した。
 これで、三方を壁に囲まれ、前方を夕凪に阻まれ、俺は文字通り、袋の鼠になった。
 俺が転んだまま振り返った途端、夕凪が俺の顔を覗き込む。俺は仰向けの状態で、後ろの壁にもたれ掛り、そこへ夕凪の顔が――あの悪魔的な笑みが近づいてくる。体勢的には、俺が夕凪に押し倒されているかのようにも見えなくもない。もっとも、そんな色っぽい展開ではないのだけれど。
「そんなところも、可愛いわ。柊樹、勇輔クン?」
 ああ、遂に俺は殺される。
 おそらく、存在の全てを残酷に犯されてから。
「さぁ、怖がらなくていいわ、痛みは感じない。それどころかあなたは快感しか感じないようにしてアゲル」
 手が近付いてくる。それで、あの惨劇を思い出した。
 この女は、三原夕凪は、一体どうやって、あれだけの男達と戦っていた? 確か純粋な力じゃあない。無論力の方もあるのだろうけど、恐るべきは別にある。
 手が近づいてくる。それで、その能力を思い出した。
 そうだ。そうだった。あの女は、対象に接触することによって――瞬殺・封殺・殺戮・拷問・陵辱――その惨劇を創り上げた。
 信じられない話――ではある。だが、この夕凪の、幻想に満ちあふれた世界に於いて、その法則は絶対だ。そう確信出来る。
 ああ、拙いぞクソッタレ。
 このままじゃ、俺はアイツらの二の舞になる。
 でも――諦観――でもいいか。そういえば大した命じゃない。ユメもキボーもないし、それに俺は――何故だろう、この女性を美しいと思ってしまって、いる?
 その手が俺の頭に――

「少しは抵抗しなさい、雑魚」
「え?」
 その声は、決して夕凪の声ではなかった。

 衝撃、炸裂――!

 夕凪という毒が、呑まれ欠けた世界が、その振動で粉砕される。
 俺の顔面すれすれを通過した、衝撃。
 それは、俺の上に乗っていた夕凪を、あの如何なる兵をも封殺してのける絶対的な暴君を――
 ――まるで木っ端を散らすかのように軽々しく、五メートル以上吹き飛ばした。

 おそるおそる吹っ飛ばされた夕凪を見る。
 その頬は赤く腫れ上がり、例の笑顔が消えている。
 それで、俺の中の夕凪の世界は崩壊した。こいつにも人間らしい痛みが存在すると知った時点で。
「全く、呆れたわね夕凪、どうしてアナタはそんなに節操がないのかしら」
 声と共に、その少女は舞い降りてきた。
 夕凪とは又違う、それでいてどこか酷似している、凛々しく妖しい笑みを称えながら。
 齢は十四くらいだろうか。全身を黒一色で塗りつぶしたかのような少女。黒の長髪にゴシック調のドレス。黒い傘を持ち、その全てに黒いレースが掛かっている。
 おそらく先程夕凪を吹っ飛ばしたのは、その傘か。
 夕凪は、さも痛そうに頬を撫でている。
「――楢木葉 魅幽。相変わらず御転婆みたいね。ビアンカもアナタみたいなものを抱えて大変でしょうに、『不純物ネロ』。
 夕凪の口の端が皮肉に吊り上がる。
 ナラキハミユウ――どうやら、それがこの黒い少女の名前らしい。
「でも知ってるでしょう? あなたの力では私は倒せない」
 白い悪魔が微笑む。
 確かにあの女の能力を前にして、この少女一人で勝てるとは到底思えない。武装した大の大人が十人以上でも無理だったのだから。
 黒い少女は、己の無力さを顧みてか、視線を落とす。
「ええ、確かに私だけではアナタを殺すことは出来ない。だから――」
 そういって、黒衣の少女は俺に視線を向ける。
「力を貸しなさい、雑魚。死にたくなければ」
 この上なく残酷な笑みで、黒い悪魔は微笑んだ。

 どうする。
 戦う? 俺が? あのカイブツと?
 俺の脳裏を、件の殺戮風景が過ぎる。
 ――嫌だ。
 あんな風に尊厳すら奪われてグチャグチャの肉団子になるのは嫌だ。
 たぶん本物の肉団子になって美味しく頂かれるより嫌だ。
 絶対に、それは、死ぬ次ぐらいにお断りだ。
 でも――
「お、俺は――」
 でも、選択権なんて、元から用意されていないのだ。
 戦って僅かな確率で生き残るか、戦わずに死ぬか。
 答えはどう考えても明白でしかなく、しかし、俺の思考は勝手に第三の選択肢を疑い始める。
 馬鹿野郎。
 そんなもの仮にあったとしても見つかったころにはとっくに御陀仏してるだろ。
 いや、かといって、俺みたいな中学生に何が――
「――」
 ……中々返答しない俺にしびれを切らして、黒い女――楢木葉魅幽は傘を振り上げて。
「早くしなさい、雑魚――!」
 ――炸裂。
 右肩に命中したそれは、夕凪を打った時より相当威力は落ちているのだろうが、木製バットのフルスイング程度の威力はあった。
 ジンジンと肩が痛む。
 それで、戸惑いを僅かに怒りが上回った。

 糞ッタレ。何か無茶苦茶ムカツクけど、仕方ねぇ。
 あ、何かもうキレた。ブチ切れた。
 もうなんか全てがどーでもいいくらいスッパリと。
「――五月蝿え、雑魚雑魚いうな馬鹿! 俺には柊樹勇輔って立派な名前があるんだファッキンビッチ!!」
 腹の底から咆哮する。
 その様子を、奇異の目で楢木葉は眺めている。
「何? さっきまで腰抜かしてたガキがいきなり元気になって?」
「んな事ぁどーでもいい。俺に出来ることがあるなら早く云いやがれ! ベラベラよく喋るテメェの口は要らねぇことを垂れ流す為にあんのか! この俺が手伝ってやるってんだから早くしろこの売女!」
 暴走。
 夕凪への恐怖と、この少女への畏怖を断ち切るかのように、吼える。
「アタシの名前は楢木葉 魅幽よ。さっきあっちの白いのがほざいてたでしょ? 聞いてなかったの? アタマ悪いわね」
 黒いヤツ――魅幽は、常に上品に、それでいて何かこちらの心を覗き込んで喰らおうとするような仕草で、俺の罵倒を返礼する。

 そのやりとりを、夕凪は可笑しそうに見ていた。
「子供同士気が合う、という所かしら。でも――そろそろ見てるのにも飽きたから、動かせて貰うわね。
 ちょうど、面白い玩具があるの。あなたがたの相手は彼らにして貰おうか知ら――」
 そういって、夕凪はパチン、と指を打ち鳴らした。
 俺達の回り、あらゆる影という影にイキモノの気配が浮かび上がる。
「な――」
 絶句。
「勇輔クン? 何で、あなたが私にすぐ捕まらなかったか、わかる?」
 それは、いた。
「――それは私が、彼らを作っていたから」
 その黒い塊は、空を飛んでいた。
 否、翼で体重を支えられないのか、段々と地面に近づいてくる。おそらく今まで建物の屋根の上にでも居たのだろう。そこから浮空し、俺達の回りへと舞い降りてくる。
 それは、紛れもなく、悪魔だった。

 悪魔。
 空想の産物。
 人型に近いが、その容姿はとても醜く、色は黒く、両の背中には蝙蝠のような巨大な羽が生えている。
 それは、誰もが思い描いたとおりの、陳腐な――それ故に凶悪そうな悪魔だった。
「相変わらずの悪趣味ね、三原夕凪。吐き気がするわ」
「『黒色ネロ』同士、仲良くしてあげなさいよ楢木葉魅幽。尤も、アンタみたいな中途半端な『ビアンカ』の中の『不純物ネロ』とは違うけれど」
 何に対してか、魅幽の表情が陰る。
 それは憤怒とか、憎悪とか、そんな感情を内包した表情。
「やるぞ、楢木葉魅幽」
 ポン、とアタマに手を乗せる。
 思ったより身長は低く、百四十あるかないかという程度だった。
「放しなさいケダモノ。アナタに云われなくとも分ってます」
 パン、と乾いた音が響く。
 こいつ、折角人が一歩譲ってやったってのにビンタしやがった。しかも思いっ切り。
「テメェ――」
 そういって、魅幽の胸ぐらを掴もうとした時だった。
 俺の手が魅幽に触れるその前に、魅幽の手は俺の両頬を掴み、グィ、と引っ張った。
 甘い香り。
 唇に柔らかい感触。
 やっと平常を取り戻しつつあった俺の思考回路が、再び混乱に陥る。
 今、一体、ナニガオコッテイル――?

 それは文字通り、悪魔のキスだった。
「契約執行――」
 俺を僅かに離れた彼女の唇が、呪文めいた言葉を紡ぐ。
 惚けている俺を置き去りに、否、どうやら置き去りにされたのは精神の方だけのようだ。
 俺の身体は、俺の意志に反して、変化を開始した。
「な――んだ、これ?」
「説明している時間と労力の無駄よ。
 ――イメージしなさい。あなたが幻想する最強の空想を。あなたの精神力次第では或いはあの夕凪すら越えられる――」

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。
 ――イメージは螺子巻き。
 俺の身体のあらゆる箇所パーツが、組み替えられてゆく。
 心臓エンジンは高性能に、間接ギアはより円滑に。
 激痛鈍痛苦痛を伴い、限りなく引き締められる筋肉スプリング――
 柊樹勇輔を構成する全ての因子が、戦うためだけに造り直されてゆく。
 ――再構築メタモルフォーゼ
「ぁぁぁぁぁぁああああああ!!」
 ――咆哮。

 悪魔が群がってくる。
 おそらく夕凪からは、悪魔の陰で今行われた儀式は見えなかっただろう。
 それ程に、沢山。全部で七匹はいるであろう悪魔、その全てが何より先にこの弱者オレを狙ってくる。
 だが、俺には理解出来ているんだ。だから――
「まとわりつくな! 暑苦しいんだよこのゲテモノ共!!」
 ――爆砕ブラスティング

 破壊。破壊。破壊。破壊破壊破壊破壊。
 襲い来る悪魔。人体であるなら平気で殺傷しうる程のパワーを備えたそれを、純粋な、それを上回る力で相殺――破砕してゆく。
 粘液の契約による肉体強化――再構成。
 その力は、建物までを破壊するには及ばないが――
 悪魔の一匹が、その翼で例の壁の後ろに回り込む。
「逃がすかよ!!」
 ――正拳。
 特に練習したわけではない、ただ重いだけの一撃。
 しかし、その一撃を以てして、あれだけ邪魔くさかった壁は粉砕され、のみならずその向こう側に逃げ込んだ悪魔まで撃墜する。
「気をつけなさい。契約の持続時間は一分だけよ、それを過ぎたらあなたはただの雑魚に後戻りしてしまう」
「五月蝿いっての。自分も働けよ」
「やってるわ。私は『ネロ』――それくらいしかできないもの」
 それは漆黒の猟犬に見えた。
 夜の闇に紛れ、黒いレースを風に流しながら、幼い『暗殺者ネロ』は獲物に肉薄する。
 対象は少したりともそれに気が付いたそぶりを見せず――黒い傘が悪魔を貫通する。――悲鳴。
 っていうかその傘何製さ? カンフュールかよ。防弾仕様だったりするのかよ。

「ふぅん、中々やるわね。勇輔の幻想能力は予定の範囲外だったわ。あれなら、もしかして私も危ない――カナ?」
 4・5・6……確実に悪魔を仕留めてゆく俺と魅幽。
 しかし、その悉くが撒き散らしたのは、人間とまるで違わぬ赤色の血液――こいつ、あの死体から――
 ある種の憎しみが宿る。
 ヒロイズムとエゴイズム――幻想と常識という秤で、その行為を嫌悪した。

 七匹目と八匹目が立ち塞がる。――ラスト。
 気合いを入れ、行動を開始しようとしたとき、常人の数倍に強化された俺の聴覚は、カチリ、という音を聞いた。
 音の元、夕凪の方をみて、声を失った。
 黒い感触が握られている。
 雑誌でしかみたことはなかった幻想。一生見ることのなかった筈の絶対的な凶器。
 それが夕凪のその白い手に握られている。
「拳銃!?」
 ルガーP08。九ミリパラベラムは過剰殺傷こそしないものの、かと云って安心出来るものでは決してない。
 そして、その銃身が捕捉しているものが何であるかを視認したとき、俺の身体は勝手に動いていた。

 ――咆哮ファイア

 一瞬の、強襲。
「ぐっ……!!」
 背中に何か異物が抉り込む感触。厚い筋肉の壁が防壁にはなったが、所詮、肉は肉。鉄の暴力に耐えられるほど強靱ではない。
 激痛。
 鋼に引き裂かれる間隔。俺の肉体が生きたまま屠殺される。
 それでも、銃弾は体内へ入り込んでから一センチ程度で停止し、どうやら重要な機関は何一つ傷つかなかったようだ。
 だが、それは直接のダメージを与える以上の効果を発揮した。
 痛みに馴れていない俺は、その一瞬、完全に無防備になる。

 その隙を狙って悪魔共が襲い掛かる――
 爪・牙・腕力――凶器と成り得るあらゆるパーツを駆使し、差し違えようとでも云うかのように、俺の存在を末梢しに来る。
 肉を抉られ、血を撒き散らし、損傷、損傷、損傷――
 しかし――
「……糞、がぁぁぁあぁぁ!!」
 撲殺・撲殺・撲殺。
 ――その強靱な肉体を備えた筈の悪魔達は、やはりそれ以上の暴力によって淘汰され、アスファルトの海へと沈んでゆく。
「……大丈夫か」
 俺には、それがするべきことに思えて、
「……馬鹿。あれくらいなら自分で躱せるのに」
 俺は、彼女へと向かう凶弾の前に、身を滑らせた。
 だが、それは魅幽にとって、余計なことだったのかも知れない。
 それでも俺は何やら不思議な満足感に満ちあふれていた。
 俺は、夕凪の方に向き直る。
 ――後ろで、呟いた。
「アリガト……その、一応助けられたんだし」
 ……ああ、何かコイツ、素直じゃない系なのかも知れない。

「さて、と。次はお前の番だ。三原、夕凪」
 不可思議な高揚感。
 自分が絶対的強者になったかのような感覚。
 少なくとも勝利者であるという奢りが、確かに自分でも感じられた。
 だが、夕凪――あの白い悪魔の顔にはあの笑みが戻っている。
「――凄いわ、あなた達。正直、ここまで出来るとは思ってなかったのに……」
 その喜悦は、何に根ざしたモノなのか。
 俺がそれを理解したときには、既に遅かった。
「柊樹勇輔――あなた、可愛いだけじゃなくて、凄いのね。確かにあなたの幻想を以てすれば、私を滅ぼせるかも知れない。……でもね、」
 ああ、そうか、既に――
「あなたが契約してから、既に五十五秒。もう、時間切れよ。残念だったわね」
 ここに来て、情勢は逆転した。否、そもそもこちらが有利になった事など、一度たりともあったかどうかは不明だが。

 途端、視界が揺れた。
 魅幽が走り寄り、俺の身体を支える。

 ギチギチギチギチギチギチ。

 ――激痛。

「が――ぁ――」
 意識がロストしそうな程の痛み。脳髄に灼熱の鉄ゴテを押しつけられた感覚。
 視界が揺れるシェイク揺れるシェイク揺れるシェイク
 精髄に汚濁を流し込み。【嘔吐】
 全身の血管を逆流させ。【幻覚】
 各可動部分の筋肉が刮げ落ちてゆく。【喪失感】

「――っ、は――」
 空気を全て奪われたところでの呼吸。
 柊樹勇輔は、あらゆる優位を放棄して、以前と同じモノに劣化する。
 ただそれだけの行為が、ここまで苦痛を伴うモノなのか。

「は――は―ぁ―は――」
 何とか呼吸を整えた頃、夕凪と俺達との距離は、五メートルほどに縮まっていた。
 既に、勝期は失われた。
 夕凪の能力は、他者に働きかけるのみならず、自己に対しても使用できる。
 完全までの復元能力。
 よって、その能力を発動させないようにしなければ、勝ち目はないのである。
 要約すれば――『脳を殺害せよ』。
 その能力――完全な再生を促す命令も、所詮は脳髄から送られてくるものに相違ない。であるならば、その大本たる脳を破壊してしまえば再生することもなく、本来の法則通りに死に至る筈である。
 だが、それを可能にする武器が、こっちにはない。
 或いはあの傘ならば頭蓋を砕き、脳をえぐれるやも知れないが、しかし、魅幽は自分では夕凪に勝てないと云った。
 しかも、相手には件のルガーがある。
 単純な人間同士の殺しあいだとしても、勝敗は歴然――
「それで、そろそろ諦めたらどう? もうあなた達に勝ち目はないのだから」
 弱者をいびる目で、まるでカエルを目の前にした蛇の目で、白い悪魔はこちらを見る。
「魅幽、もう一回、契約――出来ないか?」
「無理よ。あなたが感じた通り、契約は身体に掛ける負担が大きすぎる。休息を入れずにやったら、あなたが死ぬわ」
「その傘でアイツを貫けないか?」
「それも無理、これは質の悪いホムンクルスにのみ効果を発揮できる。夕凪レベルじゃ、流石に駄目――」
 ――詰みチェックメイト
 要するに俺達に残された選択肢は――
 黙って殺されるか、
 抵抗して殺されるか、
 逃走して殺されるかだけ。
 いずれにしてもハッピーエンドは迎えられない。

 いや、待て。
 待て待て待て。
 まだ、ある。
 俺達が生き残り、アイツを屠り去る方法が。
 魅幽に目配せする。
 それで俺の意志が通じるとも思えないが、それでも何かをしようとしていることが伝わればそれでいい。その場合、彼女なりに何とかしてくれるだろう。
 さあ、柊樹勇輔、もう一度だけ挑戦トライしろ。
 己の限界に、弱さの克服に。
 断絶しそうな足の筋肉に叱咤をくべて、
 もう一度だけあの風を――

 俺の手が、魅幽に触れる。
「go!」
 言霊はイメェジを促進し、俺の身体を弾き飛ばす。
 さながら弾丸。
 俺は一輪の風となって、夕凪へと走り寄る。
 勿論、そんなことを許す彼女ではない。
 その手に携えたルガーを以て、俺を照準に捕らえる。
 だが、捕らえた筈の俺の姿は、一瞬にして黒色の闇に包み込まれた。
 傘。
 魅幽は俺に併走、その黒い傘が俺達の姿を隠す。
 その一瞬、夕凪は躊躇した。
 傘を撃つか、右を撃つか、左を撃つか、下を撃つか。
 結局、その銃弾は発射されないまま、俺は傘の下から踊り出る。
 夕凪がルガーを向けるが、その照準が俺を捕らえる前に、再び折りたたまれた傘が夕凪の頭をノックする。
 ――衝撃。
 一瞬、たった一瞬だけ、夕凪が怯む。
 その僅かな一刹那、俺は夕凪の手に握られているルガーを奪い取ると、一定の距離を離脱する。
「――形勢、逆転」
 一瞬の攻防は、俺達の勝利で幕を閉じた。
「……無茶するわね、あなた」
「へっ。でもこれで、俺達の勝ちだ。そうだろ、夕凪」

 俺は、そこで何か違和感を覚える。
 勝利者は俺達、敗者は夕凪。
 それは既に決定した条理――覆せぬはずの法則。
 だとしたら、
 だとしたら、それは決してあってはいけない。
 俺達の勝利だというのなら、アイツは何故――あんなにも微笑んでいる!?

「何が――可笑しい?」
 それはあまりに涼しすぎる笑みで、
 それでも俺達の勝利は揺るぎなくて、
 だから、不可解というなら、こいつの存在自体でしか有り得ない。
「私はあなた達に負けてはいない。そういうことよ」
 こいつは――ナニヲイッテイル?
「強がりを云っても無駄だわ。流石のあなたでも、銃弾を脳に撃ち込まれれば死亡する。だから――」
 そこで、魅幽の言葉が切れる。丁度、俺もその可能性に辿り着く。
 あの時、俺達が特攻し、夕凪の銃を奪おうとしたとき、何故、アイツは、一発も銃弾を撃たなかった?
「そういうこと。その中に銃弾が入っていることが勝因なら、あなた達のそれは空っぽエンプティー。だってそもそもそれには一発しか弾が入っていなかったのだから」
 それは、果たして絶対的だった。
 だが、それすらも確かめるまでは決してわからないのだ。夕凪のハッタリという可能性も大いにある。何たってヤツは、一瞬の隙に例の脚力で近付いて俺達を瞬殺することが出来るのだから。
 そして、今まで考慮に入れていなかったが、俺はもちろんのこと銃を使ったことはない。初心者が銃を撃った場合、数メートル先でも命中は望めないらしい。果たして、俺にそれが出来るか。
「出任せかも知れない」
「そうかしら?」
「撃ってみるまではわからない」
「量子学の問題ね」
 クスクスと夕凪は笑う。
 その優美すぎる仕草からは、とても余裕しか窺えない。
「……撃つぞ」
 クスクス、クスクス。
「撃つ。俺は――」
 クスクス、クスクス。

 ――疑問、一。
 そうやって、人を"殺す"のか? さっきの悪魔みたいに、簡単に。
 ――ノイズ。
「っ――」
 そうだよ。
 今更気が付いた。
 可笑しいだろ、絶対。
 何で俺がこんなことをしているんだよ。
 安心して家に帰って、アタリマエのサイクルを続けるはずだった俺が?
 人を、殺すのか?
 犯罪者。
 殺人鬼。
 正当防衛だ。
 それじゃあ容認された殺人者。
 違う。
 それはいけないことだ。
 でも――
「……」
 あーあー、怠い、怠い、だーまーれー。
 こういう時は何も考えない。
 あいつを殺せなきゃ、俺が死ぬ。ただそれだけ。OK?
 しっかりしろ、柊樹勇輔。
「――うぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 トリガーを、引いた。



 逡巡の間、夕凪は一歩たりとも動かなかった。
 俺の指は引き金を、引いて。
 それでも、小さな凶器からは、何一つ飛び出てはこなかった。
 重い絶望が、俺にのし掛かり、
 魅幽が呆然と、それを見ていて、
 それでも確かに俺はその咆哮を聞いて、
 何故か、ただでさえ赤い夕凪の白衣から、更なる赤が滲み出ていたのを、俺は見た。
「なっ――」
 夕凪が、揺れる。
 その笑みは消えている。

「絶体絶命ってところだったか」
 カツ、カツ、と足音が響く。
 だというのに、気配が、まるでない。
 その男は銀色の髪をした片目の中年だった。

「……存在自体が気色悪いヤツだ――私の"正義"で燃え尽きろ」
 夕凪が、飛び退く。
 途端、さっきまで夕凪がいた場所が、何の前兆もなく燃え上がった。
 二つ目の、足音。
 それは褐色の肌に緋色の髪をした女だった。

 彼らの、それぞれの手に、銃と剣が握られている。

「流石に――これは、無理ね。いいわ、坊や――あなたを殺すのは次の楽しみにとっておくことにしようかしら」
 跳躍。
 夕凪は、建築物の上から上へと飛び移って、夜の闇に消えていった。
 その後ろを、例の二人は悔しそうに視線で追った。
「ち、逃がしたか……」
「厄介ですね、教官」
 二人が立ち止まる。どうやら不完全燃焼っぽい。

 彼らに向かい、隣にいた少女――楢木葉魅幽が敬礼する。
「信夜教官――フエゴ少尉、その……申し訳ありません、三原夕凪を仕留められませんでした」
 その姿は、先程までの魅幽とは思えないほどに生真面目そうだ。
 何やら込み入った事情でもあるのだろうか?
 それは間違いなく自分の非を責めている、そんな、態度。
「いいのいいの、魅幽ちゃんは可愛いから、それだけで」
 だが、男が返したのは転じてあまりに軽すぎる答え。
「は、はぁ……?」
 どうやら信夜と呼ばれた中年は、かなり軽いキャラらしい。
 でも強えーんだろーなー。何か一番偉そーだし。
「そ、その、フエゴ先輩」
「次に頑張ればいい、と云いたいところだが、駄目だ。今回、お前は重大なミスを犯すところだった」
 そしてこっちのフエゴとか呼ばれた女はかなり厳しそうだ。
 俺だったら絶対関わりたくないタイプ。
「はい、申し訳ありません」
 楢木葉は、深く頭を下げる。
 説教が始まりそうなので、耳を塞ぐ――が、
「何があっても絶対に死ぬな。生きて帰還しろ。そういう命令だった筈だ」
 どうやらこの女、情とか正義に厚いタイプか。
 案外いい人っぽい。
 魅幽は予想外の言葉に呆然として、思い出したように敬礼した。
「ハッ。了解……しました」

 さて、それで、俺はどうなるのだろーか。
 困惑して、魅幽の方を見る。
「それで――」
 信夜――中年がこっちを見た。
 ナイス、教官。助かった。
「そこのボウズは一体誰だ?」
 信夜に聞かれて、魅幽が答える。
「柊樹勇輔。かなりの想像能力者です。今回の作戦に於ける私のパートナーでした。今後とも共同で任務にあたります」

 そんな、想定外の、答えを――

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